時空の旅 大阪府茨木市 西国街道の宿場「郡山宿」

戦国~江戸時代

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西国街道の宿場「郡山宿」

江戸時代の参勤交代とは?

 参勤交代とは、寛永12年(1635年)に江戸幕府三代将軍の徳川家光が新たな武家諸法度(寛永令)の中で、大名に国元と江戸とを1年交代で往復することを義務づけた制度です。ここでは、参勤交代を行なった大名側ではなく、視点を変えて、参勤交代する大名を迎え入れた側の山崎通(西国街道)の郡山宿本陣を事例に参勤交代の様子をながめてみましょう。

 山崎通(西国街道)は、西宮から京都の東寺までをつなぐ街道で、東海道などの主要な街道と違い、脇街道でした。山崎通には、山崎、芥川、郡山、瀬川・半町、昆陽、西宮の6つの宿場がありました。郡山宿は山崎通の中間にあり、家数が110軒、人口が469人、旅籠(食事付きの旅館)が29軒といった規模の宿場でした。

大名が泊まる宿は

 ところで、大名の一行は旅の途中、どのような宿で、休憩や宿泊をしたのでしょうか。宿場には、大名らが休泊する本陣と呼ばれる施設がありました。江戸時代の本陣の様子を今に伝えるのが山崎通で唯一現存する郡山宿本陣です。本陣の中は、大名が休泊する上段の間という部屋があり、特別なつくりになっています。

 郡山宿本陣では、休泊した大名らの休泊年月日や食事の内容が細かく記録されている宿帳が残っています。宿帳は、五代将軍徳川綱吉の時代の元禄9年(1696)から、幕末維新後の明治3年(1870)まで記録されています。宿帳をみてみると、大名は祝儀・心付などの金銭を本陣に渡していて、それを計算すると、その収入だけで本陣を維持するのは難しかったことが分かります。

 山崎通の宿場は大名の通行をどのように思っていたのでしょうか。山崎通の宿場は大名の通行にあたって、荷物を輸送する人や馬を提供することになっていたけど、これが負担になっていました。そこで、江戸幕府は山崎通の宿駅に配慮して、参勤交代の大名はできる限り本街道(東海道)を通行するように指示しています。山崎通と東海道は西宮で分かれていて、西宮から大坂、伏見につながる東海道のルートを使うようにとしていました。しかし、その後も山崎通を大名が利用したことは、郡山宿本陣の宿帳から分かります。

 大名にとって参勤交代は経済的に負担でしたが、迎え入れる宿場側もおなじように負担でした。こうして大名の参勤交代は支えられていました。

椿の本陣
  • 郡山宿(山崎通分間延絵図、東京国立博物館蔵)
  • 郡山宿本陣全景イラスト